今年に入って観た映画の中で、一番のインパクトを残しているのは『殺人者の記憶法』、そして『殺人者の記憶法:新しい記憶』だ。
もちろん、主演俳優であるソル・ギョング氏をはじめとした俳優陣の演技も素晴らしかったのだが、
このふたつのパターンの映画は、「記憶」というシーンのつなぎ合わせ方によって、全く違う「映画」になってしまうという意味で、とても映画的でもあった。
そこが、とてもおもしろかったのだ。
殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学) | ||||
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そこで、気になっていた原作小説『殺人者の記憶法』を読んでみた。
主人公のキム・ビョンスの独白になっているので、とても読みやすかった。
だがしかし、読み進めていくと、ほとんどの設定が映画と違っていることに驚いた。
主人公のビョンスが、アルツハイマーの元連続殺人犯で、職業が獣医であること、男性であること、あと靴を反対(左右逆)に履く癖があるらしいことくらいしか、同じ個所がない。(と書いているが、実は、この中にも間違いがある。それもビョンスの記憶違いなのだ。)
あと、もちろん父が男性で、母が女性なのも同じだと言えば、冗談にしか聞こえないだろうが、映画では「姉」だった女兄弟が、小説では「妹」になっているくらい、映画は「あえて小説と設定を変えてきているのではないか?」と思うくらいほとんどの設定が違っていた。
そういう意味では、映画を2パターン観た後でも、充分に新鮮な驚きを持って読むことができる小説だった。
そう言えば、映画を観ながら気になっていたことがある。
主人公ビョンスの年齢だ。
小説の中では70歳となっていた。
主演のソル・ギョングさんは1968年生まれで、今年2018年で50歳。韓国では年齢の数え方が違うので、51歳なのかも。
ちなみに、原作者のキム・ヨンハ氏と共演のオ・ダルス氏も1968年生まれ、監督のウォン・シニョン氏は1969年生まれで、同世代だ。
ビョンスの娘は映画ではウンヒ、小説ではウニという名前だった。(連音?)
映画では銀行員、小説では大学を出て研究所に勤めているという設定だったから、20代前半の設定だろうか。
小説では70歳の設定だったので、アルツハイマーはわかるが、娘の年齢が若過ぎ、孫と間違えられるというようなことも書かれていた。(が、実際は血はつながっていない)
そう考えると、映画の50歳くらいのイメージの方がしっくりくる。ウンヒの母親の設定も。
映画を観た時点では、ソル・ギョングさんの年齢ではアルツハイマーになるのは早過ぎるのでは?と思っていたのだけれど、若年性という場合もあるらしいし、70歳よりは50歳の方が無理がない。
(年齢問題は、ビョンスの父親が軍人の設定なので、「どの戦争の時代か?」が変わってくる。)
先ほど、ちらっとビョンスに「靴を反対(左右逆)に履く癖」があると書いた。
映画『殺人者の記憶法』では、ビョンスのお気に入りの白いアディダスのスニーカーが玄関に置かれているのが写ったとき、左右逆に置かれていた。そういうのに気づいてしまう性質なので、気になってしまった。だが、それだけだった。(と思う)
映画『殺人者の記憶法:新しい記憶』では、娘ウンヒが、ビョンスに靴を左右逆に履いていることを指摘するシーンがあり、答え合わせで当たっていたような気分だった。
小説の中でもその描写が出てくるのだが、靴が左右逆であることを指摘されても、その意味がわからないという感じだった。
個人的に、とても気になっている描写なのだけど、この「靴を反対(左右逆)に履く癖」というのは、何を意味しているのだろう?
ちなみに、小説では、ビョンスのお気に入りの靴が「アディダスの白いスニーカー」であるという描写はなかった。70歳だとすると、年齢が合わないかもしれないし、とても映像的な描写だったのかもしれない。(※「アディダス愛」と言ったら『キングスマン』も忘れずに!)
他には、と言うと、、、何しろ、ほとんど違っているのだから、書き出したらきりがない。
例えば、最初の殺人の被害者は父親で、家族へのDVを止めるための正当防衛とも言えるものだった。これは小説でも映画でも同じで、殺害方法も同じだ。
その後の連続殺人についても、映画では、父親と同じようなDV男を殺害していて、悪のヒーローという感じであり、思わず感情移入してしまった。
だが、小説では、その後の連続殺人については動機や対象もバラバラの様子であり、あまり詳しく書かれてもいなかった。
少し詳しく書かれているウニの両親についても、動機はよくわからない。
そういう意味では、映画の方が一貫性があった。
連続殺人を止めたきっかけとなっている事故については、映画では、「その治療をどうしたのか?」が描かれていなかったので、「もしかしたら、自分で治療したのか?」と思っていた。一応、獣医とは言え、医者だし。(傷口が。。。)
小説では、ちゃんと病院で治療してもらっていたので、ちょっとほっとした。
映画版では、その事故の傷口と、母親の記憶がリンクしている様子があった。
もっとも、このシーンは、最初観たときには理解できなかった。
あまりに衝撃的過ぎて。。。錯乱し過ぎていて。。。
いや、今でも理解できていないかもしれない。
父を殺害する際、母も押さえつけるなど手伝ったはずだが、アイロンで殴られたのではなかったか?その頭の一部分のシーンを観たとき、それはアイロンで殴られた怪我だと思ったのだが、どうやら、連続殺人を止めるきっかけとなっている事故の怪我と、どっちとも取れるような感じがしている。そして、そういうどっちとも取れるようなシーンが他にもあり、わざとそういう作り方をしているような気がするのだ。それは、ビョンス自身が、どちらが本当か、わかっていないということなのかもしれない。
ついでに言うと、母にアイロンで殴られた話は、女性ばかり狙う連続殺人犯だと思っているテジュの記憶として語られていて、それはビョンスが作り出した、女性ばかり狙う連続殺人犯のイメージをテジュに投影しているということだろうか。別人格ということなのだろうか。
そして、最初の殺人の後、母親が出てこない。この回想シーン以外で。
あと、個人的に気になったのは、ビョンスが獣医になるのに、大学に行ったり、開業したりする訳なのだが、
その資金は、どうやって工面したのか?
小説では、軍人の家族がもらえる年金をもらっていたようだが、映画では、父親は行方不明になっていたのでもらえないのではないか?それとも、時代が時代なので、行方不明でも同様なものをもらえていたのか?
それから、映画でオ・ダルスさんの役だったアン署長が、小説では存在しているのか?ビョンスの記憶違いなのか?怪しい存在となっていた。
もうひとり、存在の怪しい人物と言えば、女兄弟の存在だ。会いに行こうとしているが、すでに亡くなっている。しかも、まだ若い頃に亡くなっているはずだが、つい最近まで交流があったようにビョンスは話している。
そもそも終わりに近づいていくにつれ、ビョンスの体験に基づく記憶なのか、ただの妄想なのか?がどんどん怪しくなっていく。
実際、アルツハイマーも進行しているのだろうか?(実際って。。。)
そして、それは、一番身近な存在である娘も同じだった。
これはどういうことか?
血がつながらないのに育てた娘の記憶とは、なんだったのか?
ときどき夢に見るらしい父親同様、幽霊のような存在を感じて生活していたということなのだろうか。
映画『殺人者の記憶法』を観た後の衝撃。
そしてその後、映画『殺人者の記憶法:新しい記憶』を観た後の「騙された!」という衝撃と、記憶=映画のシーンを切り貼りして出来上がった「映画」の特性を活かしたおもしろさ。
小説『殺人者の記憶法』を読み進めていけばいくほど、映画とは、設定が微妙に違いまくっている衝撃。
そして、どれもおもしろいのだ。
しばらく、『殺人者の記憶法』ショックに浸っていたい。
おもしろい体験だった。
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