ダムドのドキュメンタリー映画『地獄に堕ちた野郎ども』を観ていたら、カルチャー・クラブのドラマーであるジョン・モス(Jon Moss)が出てきて、びっくり。
しかも、一回目は「カルチャー・クラブ」の肩書だったのが、二回目は「ダムド」になっていたから、もっと驚いた。
すごく気になったので、いろいろ調べて検証してみた。(完全に個人的興味の世界)
まずは、簡単に「ジョン・モス ダムド」でググル。
案外あっさり見つかったのが、こちら。
「続・ジョン・モス/カルチャー・クラブの話」(「兵庫慎司のロック余談」2011.08.22 16:20)
ここから、ふたつの記事にリンクされている。
「BOW WOW WOWとCULTURE CLUBの話(「兵庫慎司のロック余談」2011.08.15 19:00)」
「BOW WOW WOW」(「RO69が行く!サマソニブログ’11」2011.08.14 17:43)
やっぱりマルコム・マクラーレン絡みなのか。
RO兵庫さん宛てに、カルチャークラブの「FROM LUXURY TO HEARTACHE ラグジャリー・トゥ・ハートエイク」のライナーノーツをコピーして送ってくれた人がいた!
そこには、バンドのバイオグラフィーの欄があり、メンバーの経歴が書かれているそうだ。
ジョン・モスは19歳で音楽事務所に所属してから、オリジナル・パンク~ニュー・ウェイヴのいろいろなバンドを転々としていた、ということらしい。
そこには「1977年、ダムドに加入。が、翌年バンドが活動停止。」と書かれているらしい。
つまり、ダムドの最初の解散の前に、まずラット・スケイビーズが脱退してから、まだちょっと活動していて、その頃ということなのだろう。
一方、Wikipedia(英語)には「1978年」にジョン・モスがダムドにいたと書かれている。
The Damned(band)(
From Wikipedia, the free encyclopedia)
その根拠となっているのが、カルチャークラブのオフィシャルHPのジョン・モスの初期バイオグラフィーのページ。
JON MOSS – Early Biography
だが、ここには、ジョンの証言は載っているけれど、具体的な年号などは記載されていない。
1977年から年をまたいでいるので、1977年ダムド加入で1978年ダムド解散で、「FROM LUXURY TO HEARTACHE ラグジャリー・トゥ・ハートエイク」のライナーノーツの記載とも、あっている。
次に、そんなとき、偶然、図書館で借りてきたCD「ウェイキング・アップ・ウィズ・ザ・ハウス・オン・ファイヤー/Waking Up With the House on Fire」のライナーノーツにもバンドのバイオグラフィーがあった。(何故か、コピーじゃなくて、写真)
カルチャークラブのメンバーの活動がごちゃごちゃに混ざっていて、他のものよりわかりにくそう。
これによると、ジョン・モスは、ダムドに1977年に加入してから事故にあい入院までしているらしい。
(よかった、「ダムドの呪い」で生きてた!と思ってしまった。)
そして、年をまたいで、1978年にダムドが解散してしまうので、ほとんど活動はしてないような。
なんとかYouTubeでラット以外のドラマーが叩いている1977年か78年の動画は見つからないかな?と思って見るけど、なかなかない。
その他にわかることは、ジョン・モスは、ダムドの前にはクラッシュにいて、その後にはアダム&ジ・アンツにいたりしたらしく、すごく興味深いとともに、すごく世界が狭くてびっくりするくらいだ。
そもそも、マルコム・マクラーレンの掌の上なのか?
そして、個人的には、やはり今年(2016年)カルチャー・クラブを観たことも、ダムドに辿り着くのに必要な道しるべというか、行程というか、何か意味があったんだろうなぁ、と思っているところ。
【追記(2016年12月1日)】2ndアルバム発売が77年11月で、直後ラット脱退。ブライアン・ジェイムスが脱退表明したのが78年初頭。そして78年4月にフェアウェルコンサートを最後に解散。ジョン・モスがいたのは77年12月から78年4月、ということになる。
(しかし、78年11月には再結成。早いね、何もかも。)
<追記部分参照サイト>『KINKS-SIZEKINKDOM』ー「THE DAMNED 1976~????」
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