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【続報】ジョン・モスがほんの一瞬ダムドにいた件について

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カルチャークラブのジョン・モス(Jon Moss/Dr.)がダムドにほんの一瞬いた件について、続報です。

ある日、キャプテン・センシブルのTwitterから、ジョン・モス在籍時の写真が流れてきました。
たしか、ファンの人がその写真をUPしてキャプテンに見せて、キャプテンがそれにコメントをしていたと思ったんですが、後で探そうと思っても見つかりません。。。
そうなってくると、Twitterじゃなかったかも?とか思い始め、Facebookで検索してみたところ、こんな画像を見つけました。

 The Damned 1977
▲真ん中がジョン・モス。左がヴァニアン&キャプテン。右がルー・エドモンズとブライアン・ジェイムズ。

ジョン・モスがいるということは、ドラマーのラット・スケイビーズがいない時期ということになります。
ブライアン・ジェイムズと、後にP.I.Lのギタリストになるルー・エドモンズがサポートに入っていた5人メンバーの時期です。
1977年です。
アルバムで言うと2nd頃なのですが、11月にリリースされ、直後にラットが脱退し、ジョン・モスが加入。だが、12月末に事故にあっているらしいジョン・モス、多難です。

動画を探してみても、どうしても見つからないと思っていたのですが、どうやらこの時のドラマーがジョン・モスのようです。

「Neat Neat Neat」「Problem Child」と「Fan Club」を演奏しています。
4分37秒あたりでドラマーが少し映りますが、黒髪っぽくないんですよね。
だから、違うと思っていたんですが。
これは、テレビ番組で、歌もちゃんと歌ってますよね。(テンション低めですが)
こういう予定が入っていたので、すぐ叩けるドラマーが必要だったのでしょうね。

ダムドは、結局1978年4月に初めての解散をしてしまうので、事故の怪我がどれくらいだったのか不明ですが、活動期間は実質1か月くらいで、最長を見積もっても6か月くらいですね。

とりあえず、写真と動画を発見しました!

【追加】

なんて思っていたら!
ベイビー・ヴァニアン(若き日のヴァニ様)がシザー・ハンズっぽくてお気に入りの写真の後ろの方に映っているドラマーが黒髪で、どう見てもラットには見えないことに気付きました。
The Damned+Jon Moss?
▲ブライアン・ジェイムズの後ろ(右端)の黒髪のドラマーがジョン・モスなのでは?!

ルー・エドモンズは見当たらないけど、ブライアン・ジェイムズはいるし、黒髪だしジョン・モスである可能性はかなり高いと思います!
案外、見逃しているのかも?!

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ジョン・モス(カルチャー・クラブ)が、ほんの一瞬ダムドにいた件を検証。

ダムドのドキュメンタリー映画『地獄に堕ちた野郎ども』を観ていたら、カルチャー・クラブのドラマーであるジョン・モス(Jon Moss)が出てきて、びっくり。
しかも、一回目は「カルチャー・クラブ」の肩書だったのが、二回目は「ダムド」になっていたから、もっと驚いた。
すごく気になったので、いろいろ調べて検証してみた。(完全に個人的興味の世界)

まずは、簡単に「ジョン・モス ダムド」でググル。
案外あっさり見つかったのが、こちら。
続・ジョン・モス/カルチャー・クラブの話」(「兵庫慎司のロック余談」2011.08.22 16:20)
ここから、ふたつの記事にリンクされている。
BOW WOW WOWとCULTURE CLUBの話(「兵庫慎司のロック余談」2011.08.15 19:00)」
BOW WOW WOW」(「RO69が行く!サマソニブログ’11」2011.08.14 17:43)
やっぱりマルコム・マクラーレン絡みなのか。

RO兵庫さん宛てに、カルチャークラブの「FROM LUXURY TO HEARTACHE ラグジャリー・トゥ・ハートエイク」のライナーノーツをコピーして送ってくれた人がいた!
そこには、バンドのバイオグラフィーの欄があり、メンバーの経歴が書かれているそうだ。
ジョン・モスは19歳で音楽事務所に所属してから、オリジナル・パンク~ニュー・ウェイヴのいろいろなバンドを転々としていた、ということらしい。
そこには「1977年、ダムドに加入。が、翌年バンドが活動停止。」と書かれているらしい。
つまり、ダムドの最初の解散の前に、まずラット・スケイビーズが脱退してから、まだちょっと活動していて、その頃ということなのだろう。

FROM LUXURY TO HEARTACHE ラグジャリー・トゥ・ハートエイク
by カエレバ

一方、Wikipedia(英語)には「1978年」にジョン・モスがダムドにいたと書かれている。
The Damned(band)(
From Wikipedia, the free encyclopedia)

その根拠となっているのが、カルチャークラブのオフィシャルHPのジョン・モスの初期バイオグラフィーのページ。
JON MOSS – Early Biography
だが、ここには、ジョンの証言は載っているけれど、具体的な年号などは記載されていない。
1977年から年をまたいでいるので、1977年ダムド加入で1978年ダムド解散で、「FROM LUXURY TO HEARTACHE ラグジャリー・トゥ・ハートエイク」のライナーノーツの記載とも、あっている。

次に、そんなとき、偶然、図書館で借りてきたCD「ウェイキング・アップ・ウィズ・ザ・ハウス・オン・ファイヤー/Waking Up With the House on Fire」のライナーノーツにもバンドのバイオグラフィーがあった。(何故か、コピーじゃなくて、写真)

カルチャークラブ「ウェイキング・アップ・ウィズ・ザ・ハウス・オン・ファイヤー/Waking Up With the House on Fire」ライナーノーツのバイオグラフィー(一部)

カルチャークラブのメンバーの活動がごちゃごちゃに混ざっていて、他のものよりわかりにくそう。
これによると、ジョン・モスは、ダムドに1977年に加入してから事故にあい入院までしているらしい。
(よかった、「ダムドの呪い」で生きてた!と思ってしまった。)
そして、年をまたいで、1978年にダムドが解散してしまうので、ほとんど活動はしてないような。
なんとかYouTubeでラット以外のドラマーが叩いている1977年か78年の動画は見つからないかな?と思って見るけど、なかなかない。

ウェイキング・アップ・ウィズ・ザ・ハウス・オン・ファイヤー/Waking Up With the House on Fire
by カエレバ

その他にわかることは、ジョン・モスは、ダムドの前にはクラッシュにいて、その後にはアダム&ジ・アンツにいたりしたらしく、すごく興味深いとともに、すごく世界が狭くてびっくりするくらいだ。
そもそも、マルコム・マクラーレンの掌の上なのか?

そして、個人的には、やはり今年(2016年)カルチャー・クラブを観たことも、ダムドに辿り着くのに必要な道しるべというか、行程というか、何か意味があったんだろうなぁ、と思っているところ。

【追記(2016年12月1日)】2ndアルバム発売が77年11月で、直後ラット脱退。ブライアン・ジェイムスが脱退表明したのが78年初頭。そして78年4月にフェアウェルコンサートを最後に解散。ジョン・モスがいたのは77年12月から78年4月、ということになる。
(しかし、78年11月には再結成。早いね、何もかも。) 
<追記部分参照サイト>『KINKS-SIZEKINKDOM』ー「THE DAMNED 1976~????

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